「ジユゴンの家」日誌より |
緊急!!! 週明けから事前調査開始!! 県内外の皆さん、辺野古へ結集してください!! 3度目の闘いは始まった!! |
今朝、琉球新報は朝刊で「週明けから事前調査・那覇防衛施設局、警備、県警と調整」と報道しました!! 「事前調査」は基地建設を強行しようとする政府の「V字型滑走路基地建設の着工」に他なりません!! さらに、環境アセス法さえも無視した違法な調査なのです!! ★この事前調査を絶対に許してはなりません。 事前調査(実質、基地建設着工)において政府はアセス法違反であり、法治国家としての責務も負っていません。のみならず、県民のV字型滑走路建設反対、約7割の声を完全に無視しています。 基地建設計画は1997年12月21日の名護市民投票で「52%(過半数)が反対」という結果が出ています。 政府はその声を無視し、リーフ上基地建設案も2004年4月19日より強行着工に踏み切りました。しかし、それさえも沖縄・全国・全世界の人達と共に徹底した体を張った闘いにおいて阻止され、2005年10月28日には「リーフ上基地建設案 白紙」に追い込みました。 すでに基地建設計画は私たちの手によって破綻しています。政府は「V字型滑走路基地建設」を即刻、中止すべきです!! ★私達は警察権力などの脅しには屈しない! 那覇防衛施設局は県警の導入を視野に入れているようです。前よりも厳しい闘いが要求されていることははっきりしています。しかし、私達は沖縄・全国・全世界の仲間たちを最後まで信じた時にそれに屈しないで闘える! 私達が逮捕されることも予想されるでしょう。しかし、その私達の闘いを引き継ぎ、引き受ける仲間たちが全国にいるということ。私達はそこに全てを賭けています。 沖縄・全国・全世界の繋がりがあれば私達は絶対に負けない。政府はこの繋がりを分断しようとするでしょう。しかし、「どうしても基地建設を阻止したい・戦争を止めたい」「どうしても勝利したい」という私達の切実な思いはそれを絶対にさせない。 ★今まで以上の人数が緊急に必要になってきています。 命を守る会のおじぃ・おばぁが闘い抜いてきた10年間。その中で繋がってきた全国・全世界の仲間たちへ辺野古への結集を呼びかけます!!今こそ、立ち上がってください!! 3度目の闘いが始まった!!今こそ、私達が3度目の勝利を手にする時です!! 辺野古へ集まってください!! 政府は今すぐ辺野古から手を引け!!私達が全世界と共にある限り政府に勝てる要素など一つもない! 私達は命を守る会を先頭として、私たちの時代と未来を賭けて最後まで闘う!! ・環境アセス法(環境影響評価法・大規模な事業などをやる場合の法手続き。) ・名護市民投票(1997年12月21日に行われた基地建設計画に対する住民投票。) ・リーフ上基地建設案(1996年に発表されたリーフを埋め立てて基地建設を行う計画。) ・V字型滑走路基地建設案(2005年リーフ上基地建設案の白紙を受けて日米政府が再度沖縄に押し付けた基地建設計画) ・警察権力(警察や公安・機動隊のこと。) |
★4/21琉球新報報道の全文。 普天間代替 週明明けから事前調査!! 那覇防衛施設局 警備、県警と調整 米軍普天間飛行場移設先の環境現況調査(事前調査)で那覇防衛施設局は、22日に参議院沖縄選挙区・補欠選挙が終わるのを持って、週明け早々にも海域調査に着手する。 海域使用についての県の同意を得る前の段階から、ダイバーによるサンゴの目視調査など海に直接手を付けない作業に取り掛かる。 施設局は反対派の阻止行動に対処するための警備について県警と調整している。 事前調査に向け施設局が3月末に県へ申請した海域使用の協議について県土木建築部は20日までに、意見照会していた庁内各課からすべて回答得た。 23日以降に沖縄総合事務局財務部との協議を経て、施設局の海域使用に同意する。 県関係者によると、施設局は申請から1ヶ月が経過する26日にも県の同意を得たい意向を伝えている。施設局は県の同意を得た後で、カメラなど調査機器を設置に備える意向だ。 事前調査の具体的な内容は、阻止行動を警戒し明らかにされていない。 分かっている範囲では、サンゴ調査に使用する着床板の設置、ジュゴンやウミガメなど大型の海生生物の動向を調べるためのカメラやパッシブソナー(音波探知機)の設置を予定。 普天間飛行場移設をめぐって県は、事前調査については「手続きとして拒否できない」として施設局の申請に同意する方向だ。 (滝本 匠) |
4月徳島面会日記 星野暁子 |
「やっとお会いできましたね」同行した東京の天谷昭夫さんを紹介すると、文昭はそう言った。天谷さんは、身を乗り出しながら、なぜ自分が運動にかかわるようになったかを話した。ソニーでまつたけの栽培をしていたこと等も話していた。文昭は笑顔で聞いていた。6月11日、一日目の面会だった。
関西・豊中の南徹夫さんは、時々文昭に花などの写真を送ってくださっている。沖縄の牧港支部青年部の闘いに、大きく励まされたと文昭が語っていた面会報告を読んだ南さんが送ってくれた彼らの写真のことに、話は進んだ。 南さんが体調のことを尋ねると「体調はとてもいいです。頭痛で悩まされていたけど、バケツを持ったつもりで腕をぐるぐるまわす運動をすると、痛みはとれる」と文昭は答えていた この日の文昭は、面会用の服ではなく、グレーの作業用の服をきていた。「運搬」と書かれた赤い腕章をつけていたので、「その腕章、どうしたの?」と聞いてみた。「班長になってほしいという話があったけど、今まで代行をしてきている人がいるから、その人をさしおいて、自分が班長になるわけにはいかない。この腕章をつけて、副班長のようなことをしている。実質、班長のような仕事だけどね。」と文昭。 4月に処遇の見直しがあった。「4月の見直しでは、無事故12年までの人が2類になった。僕は、無事故10年だからね。だんだん基準がゆるくなっているから、10月ぐらいには、僕も対象に入るかもしれない。」と文昭は、言った。文昭の今の処遇は、3類になっている。面会が月3回、文通が月5回できる。この3類という分類は、刑務所に入所して半年ぐらいたつと、誰でもがなれるような分類だと言う。受刑者処遇法の施行によって、受刑者全体をみれば、処遇上の底上げはされたけれど、苦労して旧2級になった人は、かえって相対的には処遇が悪くなったような印象だ。ねばり強く2類へのランク上げを待つ以外ない。 天谷さんは、私の亡くなった父と同じ年だと言うと、文昭は、「お父さんに、顔つきも似てるよ」と言っていた。 天谷さん、南さん、お二人とも文昭との面会に感激しておられたようだった。面会の後は、ドライバーとして参加してくださった豊中の木下宏子さんといっしょに、刑務所のまわりを3分の2ぐらいまわったり、受刑者の作っているハンカチ等の買い物をしたりした。神山公園から刑務所を一望した。桜が、きれいだった。 2日目、3日目は、私が一人で面会した。文昭は、この過程では、一番元気そうに見えた。文昭の誕生日にあわせて完成する予定の「詩画集」について話をした。2回の面会とも、文昭は、詩画集の見本を持ってきていた。ギリギリに頼んだ文昭の一筆も、運動時間を使ったりして苦労して書いたと言っていた。二人で生きた20年を「詩画集」をいっしょに創りあうことで、語りあえたことが大きかった。私の病気以降、はじめて愛を確かめあうような面会になったからだ。 月3回私が面会するというのは、文昭の要望だったけど、昨年は、文昭に面会したい友人が多かったりで、私の面会を削ることもあった。今年になってからは、可能な限り月3回私が面会するようにしている。今回ようやく、気持ちがつながっていることを実感できる満足のできる面会になった。そういう面会ができると、気持ちにも余裕ができる。いくら気持ちがあるといっても、話し足りなかったり、気持ちが断ち切られるような思いで帰る面会も多かった。沖縄のこと等、文昭と話したいことが多くて、短い時間に話題が次々と変わって終わることもある。月3回、一回30分の面会は、夫婦面会としては、少ないが、精一杯使いこなすことで、次の展望も生まれるだろうと思う。充実した文昭と私の面会の中に、親族、友人を迎入れたいと思う。 |